寺子屋の指導

幼児教育や低学年を教えて気付いたこと

今晩は、本日も粛々。

 

昔は、金大附属や泉丘は、

これくらいやっておけば大丈夫というラインが見えていました。

15年ほど前から、

そのラインをやっていても、

あれ?という子たちが出てきました。

 

偏差値の壁みたいなものって、やっぱりあるもので、

それの問題かなぁと思っていたのですが、

実は「考える習慣」みたいな問題だったということに気付いて、

幼児教育や低学年と、

どんどん教える学年が下がっていきました。

 

中高生を指導していて、

この途方もない差を、もっと先の学年から埋めようという、

ごくごく自然な流れだったと思います。

 

で、低学年を初めてみて、

びっくりしました。

 

中高生の差なんて、

低学年の差と比べると、

大したことはありませんでした。

 

低学年における差は、もっと大きくて、

高学年・中学生・高校生と登るにつれて、

彼らがコミュニケーションスキルを身に付けることで、

実は差を埋めにかかっていた、

しかしながら、

それでもまだすごい差だと感じていたにすぎませんでした。

 

しかも、必要とされているのは、

最新の教育理論ではなく、

昔ながらの当たり前が、

現代では当たり前ではないことが原因だということもわかってきました。

 

荘子の言葉に、

「機械有るものは必ず機事あり。

機事有るものは必ず機心あり。

機心胸中に生ずれば、則ち純白備わらず。

純白備わらざれば、則ち神生定まらず。

神生定まらざる者は、道の載せざるところなり。」

 

機械のような便利なものを使うと、それに伴う仕事が必ず増える。

機械に伴う仕事が増えると、便利さに頼る心が生まれる。

便利さに頼る心に囚われると、心の純白さが失われる。

心が汚れると、精神が定まらない。

精神が乱れると、道理がわからなくなってしまう。

 

一番わかりやすいのが「点数が何点取れていればいい」とか、

「何歳までにこれくらいの力をつけさせねば」とか、

そういうところですかね。

 

だからといって好き勝手やっていればいいというわけではなく、

物事には道理というものがありますので、

それに沿っていれば、

いいわけです。

 

ごんぼっち