名門大学に進学するということは
今晩は、本日も粛々。
先日、東大に進学した寺子屋生とお話をする機会があって、
せっかく東大にいるのに、燃え尽きている生徒が多いので、
勿体ないなぁと思っているという話を聞きました。
しかしながら、石川県に限らず、いわゆる自称進学校がやる、
課題漬けの勉強習慣に慣れきっていると、
単に「入学が目標となって、入学後目標を見失う」以外にも、
そうなってしまう理由がわかる気がします。
私は東京都内の、偏差値もべらぼーに高いわけではない、
文系私立大学出身の、寡聞浅学の身ですが、
それでも、大学進学後、
首都圏出身の同年代たちの、文化資本の累積っぷりに、
当初、言いようもないコンプレックスを抱きました。
註:文化資本とは…(AIによる概要から引用)
「文化資本」とは、フランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した概念で、
学歴や教養、知識、言葉遣い、身のこなしなど、金銭以外の非経済的な資産を指します。
これは個人の社会的地位や成功に影響を与え、
教育や就職、人間関係などで有利に働く「目に見えない力」であり、
身体化されたもの(教養・振る舞い)、
客体化されたもの(書籍・美術品)、
制度化されたもの(学位・資格)の3つの形態で存在します。
具体的に述べますと、
出身高校でも相当音楽に詳しいつもりで、
邦楽は1950年代から、洋楽は1930年代から大雑把に聞いていましたが、
大学で会った音楽で将来食べていきたいと思っている人たちや、
本当に音楽が好きな人たちは、
中学時代で私の位置を通り抜け、高校時代はライブハウスで、
これから売れるバンドやミュージシャンをウォッチしている状態でした。
(こういう人たちが、広告業界やエンタメ業界に行くわけですね)
別に趣味に限った話ではなく、
私は偏差値と受験日程から考えて、志望校を選びました(現役のとき)が、
私の出身大学は、ちょうど戦後50年の節目が、浪人の年だったのですが、
当時の学長が、キリスト教系大学なのに学徒出陣に協力したことを、
神の前で告解することがニュースになり、
それに感動して志望校に加えたという生徒が、結構おりました。
そして、大学や学部学科を志望した理由として、
教授の専門科目や、書いている本をある程度目を通していたり、
同じ首都圏であることのメリットを活かして、
実際にその教授の授業を聴きに行っている生徒たちもいました。
小説やマンガでみるみたいに、
美術館でデートをしてきたような人たちもいました。
私は比較的、身体化された文化資本を、両親から受けて育ってきたつもりでしたが、
それにもかかわらず、木っ端みじんに打ちのめされました(笑)。
大学を卒業するころには、コンプレックスはようやく克服して、
地方都市の方が、実はメリットは大きいことを見出して、
Uターン就職をするわけですが、
繰り返しますが、べらぼーに偏差値が高いわけではない、
私立文系大学ですら、これです。
ましていわんや、
偏差値が高くて、
附属の高校・中学・小学校・幼稚園などがあったり、
国立大の名門だったり、
偏差値が高くなくても、
名門として伝統を売りにしている大学だったりすると、
考えるだけで、ぞっとします。
いわゆる「いい大学」に入ってくる生徒は、
点数という、目に見える氷山も大きいかもしれませんが、
海面に隠れている氷も、途方もなく大きいわけです。
ですから、高校から課題をもらって、
その課題に取り組むことで入った生徒たちが入学後燃え尽きてしまうのは、
目標を見失う以上に、
当然の帰結としか思えないわけです。
寺子屋生は、偏差値的にいい大学行こうが、良くない大学に行こうが、
大学の勉強をウキウキ楽しめるような、
生徒に育てていきたいと思っているわけです。
ごんぼっち